チャプター 2
深く息を吸い込んでから、私はナースステーションへ向かった。だが、硬い大理石の床を打つヒールの甲高い音と、それに重なる男の声を耳にした瞬間、足が止まりかけた。胸がきゅっと締めつけられる。その声に、聞き覚えがありすぎたからだ。
「無理するな」
ヘンリーの声には、私がもう忘れかけていたような、やわらかな響きがあった。
「無茶をしちゃいけない」
私は大きな鉢植えの陰に身を隠した。けれど、完全にやり過ごすには遅すぎた。イザベラ・スコットは、まるでそこが自分の定位置であるかのようにヘンリーの腕にもたれかかっていた。真っ白なスーツは夜更けだというのに一点の乱れもなく、白金色の髪は完璧な波を描いて肩に流れ落ちている。病院特有の容赦ない照明の下でさえ、その化粧はひとつも崩れていなかった。
「ああ、ヘンリー……」
イザベラの甘く息混じりの声が、廊下の先までよく通る。
「少し、めまいがするだけなの。このひどい病院の明かりのせいで……」
彼女は芝居がかった仕草でふらつき、ヘンリーにもたれかかった。手入れの行き届いた指先が、彼のラペルをしっかりとつかむ。
私は見てしまった。ヘンリーの表情がやわらぐのを。五年間の結婚生活のあいだ、一度も私に向けられたことのないやわらかさだった。彼はためらいもなくイザベラを抱き上げ、胸元にそっと抱え込んだ。
「具合が悪いなら、無理をする必要はない」
その声に滲む優しさが、喉を締めつけた。五年間、彼は一度だって私にそんな気づかいを見せたことがなかった。私がビリーを妊娠していたときでさえ……。
「ヘンリー!」
不意にイザベラの声が鋭く、はっきりと響いた。
「あそこにいるの、ハーディング夫人じゃない?」
私は背筋を伸ばし、鉢植えの陰から出た。もう隠れていても仕方がない。しわの寄ったブラウスも、乱れたポニーテールも、イザベラの視線の下ではひどくみすぼらしく感じられた。
「ここでお会いするなんて、面白いことですわね」
ヘンリーに抱かれたまま、イザベラは微笑んだ。だが、その笑みは目もとまで届いていない。
「せっかくだもの、立ち止まってご挨拶しなくてはね、ヘンリー。だって、私たち、みんなボストンの娘ですもの」
彼女が「ボストン」という言葉をわざと強調したことで、その意味は痛いほど伝わった。故郷での、あまりにもかけ離れた私たちの立場。彼女が社交界の舞踏会に出ていたころ、私は医学部の学費を工面するために掛け持ちで働いていたのだ。
ヘンリーの灰色の瞳が、私を上から下までなぞる。そこにあるのは、臨床的なまでの冷淡さだけだった。
「その必要はない。君が気分を悪くするだけだ」
「ご心配なく」
イザベラの声には、蜜を塗った毒のような甘さがあった。
「あなたの息子さんが具合を悪くしていると聞きましたわ。ヘンリーが出張から戻ってきた途端に病気になるなんて、ずいぶん都合のいいこと。まさか、子どもの体調を使って気を引こうとしているんじゃないでしょうね、ソフィア?」
「そんな……私は、そんなこと……」
言葉が喉につかえて出てこない。ヘンリーの表情が、すっと険しくなった。
「私……」
弁解しようと口を開いた瞬間、廊下の向こうから駆けてくる足音が、私の声を遮った。
「ハーディング夫人!」
看護師が血相を変えて走ってきた。
「急いで来てください。息子さんの熱が四十一度まで上がって、熱性けいれんの症状が出ています!」
心臓が止まったような気がした。
「何ですって? でも、さっきまでは落ち着いて……」
「担当医は十八階でスコット様の定期検査に呼ばれてしまっていて……」
看護師は不安げにイザベラへ視線を走らせる。
「別の先生を探していますが、それまでに――」
その先は聞かなかった。私はもうビリーの病室へ向かって走り出していた。背後でイザベラが芝居じみたため息をつく声が聞こえる。
「あらまあ、この時間のスタッフは、子どもの扱い方もまともにわからないのかしら……」
一六三〇号室が、気の遠くなるほど遠く感じられた。ドアを押し開けた瞬間、ベッドの上で小さな身体を激しく震わせている息子の姿が目に飛び込み、その場に崩れ落ちそうになった。
「冷却を手伝ってください!」
看護師がビリーの毛布をはいで、きっぱりと言った。
「とにかく今すぐ熱を下げないと!」
私は震える手で消毒用アルコールの瓶を開けようとした。ふたはなかなか回らず、やっと開いたと思った瞬間、中身の半分がシャツに跳ねた。つんと刺すような匂いが鼻を焼く。私は看護師と一緒に、冷たいタオルをビリーの肌に当てていった。
「ママ……」
ビリーの声は、浅い息の合間に漏れる、かすかなささやきにすぎなかった。
「いたいよ……」
「わかってる、あなた。わかってるから」
私は必死で声を震わせまいとした。
「もう少しだけ頑張って。すぐにお医者さまが来るから」
でも、それが嘘だと、私自身がいちばんよくわかっていた。手の空いている医師は全員、十八階へ呼び集められていた。イザベラ・スコットの「定期」検査のために。彼女のプライバシーを守るという名目で、フロア全体が閉鎖され、通常の看護スタッフでさえ立ち入りを禁じられている。
苦しそうに息をする息子を見つめるうちに、恐怖は次第に怒りへと姿を変えていった。もう、これはイザベラのくだらない見せつけや権力遊びだけの話ではなかった。彼女は最初からこの状況を仕組んでいたのだ。ビリーがここに来ると知っている時間に合わせて「緊急」の検査を入れ、病院の人員も設備も独占し、そのあいだに私の息子は苦しめられている。
モニターが警告音を鳴らした。ビリーの体温はまだ上がり続けている。私は何度もナースコールのボタンを押した。無駄だと知りながら。それでも押さずにはいられなかった。ハーディング家の世界では、金と権力がすべてを決める。医療を受ける順番でさえも。
病室のガラス越しに、ヘンリーがイザベラを抱いたままエレベーターへ向かう姿がちらりと見えた。今の彼女はもう笑っている。さっきまでの「か弱さ」など、影も形もない。扉が閉まるのを見届けてから、私は息子のほうへ向き直り、その小さな手を強く握りしめた。
「そばにいて、お願い……」
私は冷たい布でビリーの額をぬぐいながら、かすれる声でささやいた。
「ママのそばにいて」
夜は果てしなく続いていくようだった。規則正しいモニター音と、息子の苦しげな呼吸だけが、その長い闇を刻んでいる。この瞬間、ビリーがひと息ごとに必死で生にしがみつく姿を見つめながら、私はようやくヘンリーとの結婚の真実を悟った。この五年間、すべては私のひとりよがりだったのだ。ヘンリーが私を愛してくれることなど、決してなかった。
そして、その愚かさの代償を払わされているのは、私の息子だった。
